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打ち砕くことの出来なかった支配に対する闘争心



ある監獄の元看守が、ある収監者について、彼(元収監者)の誕生日に招待された時に、語ったことである。 二人の出会いから、もう随分あとになってからのことである。

 私が監視していた収監者のひとりが

私の指導者になったことは、

大変誇らしいことです

元看守は、そうのように語ったのである。収監者と指導者という言葉を使ったが、それら立場を超越する尊敬と信頼から発せられたが故に、とても綺麗な言葉である。


収監者のひとり、そして指導者とは一体だれなのか。 そう、それは彼の、ネルソン・マンデラ氏(南アフリカ共和国 第8代大統領)である。

ヨーロッパの勢力に翻弄された南アフリカ

南アフリカの南端の発見は、ヨーロッパよりも2000年以上前に、同じアフリカ大陸のエジプト🇪🇬によって行われたと言われる。紀元前600年頃の話である。エジプトは、以前紹介した『フェニキア人』にアフリカ大陸周航の命を下した。フェニキア人は、海洋交易民族として優れた航海技術を持っており、それゆえ地中海を中心拠点として繁栄していた。アフリカ大陸周航は、紅海から出発し、アフリカ大陸南端を回りエジプトに戻るという、時計回りの航路だった。この時、喜望峰を発見したかどうかは不明である。



以前より、大航海時代の話はしてきました。15世紀後半からのことです。入植地の拡大の為に、より航海技術も発展したといえる。むしろ、陸路を進むよりも、格段に安全であったし、早かったのだ。


コロンブスが、当初ポルトガルに航海の支援を求めたが断られた。達成の為の計画が現実的でないと考えられていた事もあるが、喜望峰(Cape Town)にいたる直前のコンゴ王国にまで、アフリカ探検が進んでいた事も理由のひとつとされる。さらに、スペインに渡った頃には、1488年にポルトガルの探検家によって、ついに喜望峰が発見された。これにより、香辛料貿易のルートが短縮された。以降、インドへの『東廻り経路』が確立されていった。この事もあり、コロンブスはなかなかスペイン王室からの支援を得られなかったのである。ここでもう一度、以前紹介した1490年当時の世界地図を掲載しておきます。

1490年当時の世界地図

コロンブスの新大陸発見の、約150年後の17世紀中期、オランダ東インド会社により、喜望峰の殖民が本格的に始まり、ケープタウン市が生れた。欧印航路の拠点として、ケープタウンは発展した。オランダの政策もあり、入植者は増えていった。さらに商船の港と言うだけでなく、商船を相手とする商人や、現地の奴隷を使って内陸まで進出した大規模農業者など、富裕層も生れていった。当然、このような発展の裏には、先住民に対する残虐があったのは、言うまでもない。



18世紀後半になると、ヨーロッパ本土ではフランス革命が起こった。ヨーロッパの勢力図は短期間に塗り換わったオランダ本国がフランスに併合されると、オランダの植民地もフランスの支配下となった。



しかし、フランスはイギリスとの戦争が続く事になり、結果としてアフリカの植民地を次々とイギリスに支配されていった。1803年には、ナポレオンは北米大陸にあった植民地ルイジアナを、アメリカ合衆国に売却した。イギリスは、地政学的に北アメリカ大陸への入植を進めていたが、この頃には既に入植者たちによる13州イギリスからの独立を果たしていた。しかしながら、イギリス艦隊の制海権は大きなもので、フランスの内政的混乱もあり、中南米やアフリカのフランス領・オランダ領を自国の植民地としていった。フランス革命中から、イギリス人はケープタウンに押し寄せていた。18世紀末にはダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来し、ついにはケープタウンを占領した。フランス革命終了後、ケープタウンは、今度はイギリスの支配下となったのである。



20世紀になると、一部の自治区が南アフリカ連邦(以下、南アフリカ🇿🇦)として、イギリス帝国の自治領として自治を始めた。この1910年が、建国の年となる。この頃から、鉱山労働における、白人・黒人の職業区分などを制定する、いわゆる人種差別法が全国規模で進んでいった。そんな最中、ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)は、1918年7月18日に生れる。



第二次世界大戦が終結し、アフリカの多くの国が、独立していく事となる。南アフリカは戦前に、イギリスと同格の主権を獲得、更に戦後1961年には、人種主義政策(アパルトヘイト)に対する非難をイギリスから受け、イギリス連邦から脱退し、南アフリカ共和国となった。アパルトヘイトは、戦後の1948年に当時の政権が、人種隔離政策として本格的に推進していった。南アフリカは最終的に、自国民でもあるヨーロッパからの入植者達による差別支配に苦しむ事となる。国民の四分の三を占めていた南アフリカの黒人は、政治的権利の多くを認めらなかった。少数派である白人より法律的に劣った存在に押しとどめられていた。法律的に劣ったとは、言い方がゆるい。差別的な法律が公然だったのである。



南アフリカに限らず、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、そしてインド、中国などのアジア地域は、ヨーロッパ列強の勢力の盛衰に翻弄されてきた歴史がある。残酷で、悲惨な歴史であった。今となっては、結果的に、人類が通るべき道だったとも言える。教訓として必ず活かさなければならないと考える。 一方、その様な残酷な歴史の中でも、必ず英雄と呼ばれる人物が現れる。マンデラ氏が、反人種差別部族に生れたのも、必然と言えるのかも知れない。

マンデラの戦いは両支配に対してのものだった

第二次大戦後、新政権の元で、急速にアパルトヘイト体制が構築され、制限されていた黒人の権利はさらに厳しいものとなった。マンデラは、戦時中にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その中の青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動を主導した。様々な戦いのなかで、非暴力的手段の限界を感じることもあり、武装闘争も容認し行った。



政府も反勢力に対する圧制を強めた。マンデラも負けなかった。しかし、1964年、ネルソン・マンデラは祖国である南アフリカに対する国家反逆罪で有罪となった。46歳の弁護士でもあった彼は、死刑は何とか免れたものの、ケープタウン沖の監獄島(ロベン島)での終身刑を言い渡されたのだ。18年後には、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監された。国家反逆罪とは、もちろんアパルトヘイトと総称される人種差別的な法律に対する抵抗運動を組織したことだった。



マンデラが率いる政党アフリカ民族会議(ANC)が反アパルトヘイトの武装闘争を容認していたため、南アフリカ政府はマンデラをテロリストと見なしていた。理由はなんでも良いのである。それは今も昔も変わりはない。



支配者層は南アフリカの白人である。そしてそれらは、17世紀以降オランダとイギリスから南アフリカヘ移り住んだ入植者の子孫である。国内で支配権を手中に収めておくためにも、アパルトヘイトを強要していた。支配者層は、常に『恐れ』をどこかに持っているものである。支配される側の黒人は、国民の四分の三を占める程多数であった。



27年におよぶ収監は、マンデラの闘争心を打ち砕くのが目的だった。彼は、収監中に、

・結核を始めとする呼吸器疾患
・採石場での重労働を強いられ、目を負傷
・面会は年にひとりしか許されない
・小さな独房で電灯を消すことは絶対に認められなかった

のである。しかしマンデラは挫けなかった。刑務所の壁の中からANCへの指導を続けた。それどころか、対立する政府側組織の主勢力との対話のために、語学を学び、また白人のスポーツであるラグビーの知識を身につけた。また、収監中にも勉学を続け、法学士号をも取得した。



その揺がぬ決意に、看守たちからも尊敬を集めた。そして慕われもした。刑務所の外では、マンデラは南アフリカだけでなく世界各地の何百何千万という黒人たちの英雄となった。また解放運動の象徴的な存在とみなされるようにもなり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていった



1990年2月11日、マンデラは刑務所から釈放された。国際社会の圧力を受けて、南アフリカの白人政府はようやくアパルトヘイトを廃止した。しかしその後もマンデラの意に反して、数ある反政府組織は、武装解除しなかった。1994年4月に全人種参加の制憲議会選挙を行う事が決定され、それにより選出された新議会において新憲法を作成することが定められた後でも、抗争を繰り返す状況は収まっていなかった。


27年にも長きに渡り厳しい監獄生活を送ってきたマンデラが目指していたものとは何か。30年も前、1964年、マンデラが収監される前の裁判にて、彼がすでに語っている。

 私は白人支配に対して戦ってきました。
黒人支配に対しても戦ってきました。

私は、全ての人が、平等な機会を与えられ、
仲よく一緒に暮らす民主的で自由な社会という
理想を胸に抱いてきました。

それは、私の生きる目的であり、
実現させたいと願う理想なのです。

必要とあらば、その理想のために、
死ぬ覚悟はできています。

マンデラは、単なる現状の打開を考えていたのではない。未来の理想を常に掲げ、自身と闘っていたのである。この裁判の時に語ったマンデラの理想が、現実のものとなろうとは、その裁判の時、誰が思い描けたであろうか。彼は知っていた。憎悪をもって憎悪を制することはできず、制することが出来るものこそは寛容であることを。彼が抱いていた闘争心とは、自身の中にあるべき寛容に対してだとも言える。

– à la carte –

– 今日の音 –

とうとう、Amsterdam Dance Event(ADE)が終わりました。LIVE配信も思ったより観れず、残念でした。


今回の映像は、Charlotte de Witte が16日(水)に、Gashouder(ナイトクラブ)で、彼女のレーベルであるKNTXTが主催でプレイしたものです。実際は日をまたがった17日早朝、3:30~5:00です。
Awakenings 版が来た!ので差し替えました-

Charlotte de Witte @ Awakenings x KNTXT ADE 2019

Tシャツも現地では販売されていたようですね。欲しいなぁ。通販とかして欲しいですよね。 ADEは終わりましたが、まだまだFESは、あちこちであります。

– あとがき –

さて、先日ラグビー日本🇯🇵VS南アフリカ🇿🇦戦が行われました。残念ながら、私は観ることができませんでしたが、とても白熱した良い試合だったと聞きます。優勝候補の一つである南アフリカに対して、日本は善戦したと思います。南アフリカを今後は応援していきたい気持ちです。



私は、映画も好きです。以下、マンデラ氏を題材にした映画の一部ですが、抜粋いたします。

・『マンデラの名もなき看守(GOODBYE BAFANA)』(2007年)
  ジョセフ・ファインズ、ダイアン・クルーガー出演
  マンデラと看守の交流を描く。
・『インビクタス/負けざる者たち(Invictus)』(2009年)
  モーガン・フリーマン、マット・デイモン出演
  1995年に南アフリカラグビーチームがワールドカップで優勝した話。
・『マンデラ 自由への長い道(Mandela: Long Walk to Freedom)』(2013年)
  自伝の映画化。マンデラ役はイドリス・エルバ。


私は、『Invictus』しか観ていませんが、特に『GOODBYE BAFANA』は興味がありますね。



どうせ知ってたんでしょ

過去に、私に言い放った人間がいる。どうしても、その時の『』が強烈で頭から抜けない。知ってしまう人間は、生きる道が閉ざされてしまった。故にそれ以降、もう何事も無かったように知らなかったよう装うしかない。またそうして来たし、これからもそうだ。そう、スルーすることだ。しかしそれでも精神的に苦痛が伴う。 あとから、なんとでも理由付けができるし、理由付けされる。 生活の乱れ? そんな下らない話はない。部屋なんて自由に見るがいい。 部屋の片付け? そんなものどうでも良い事だ。 下らなすぎる。 私が闘っている苦痛に比べれば、微塵に過ぎない。 とにかく、生きよう。 1日の命の尊さはよく知っている。 下らないことに精神をすり減らす必要はない。 とにかく生きよう。それ以上の努力はない。 もうそれ以外、必要ない。



中継してくる話は、無駄である。
向こう側で騒いでいれば良い。

ただ、それだけ。



決して、怒りをかうことの無いように。


加筆・修正は、その時期、内容を示す
ことなく、行っております。
ご了承下さい。

また、何度も言いますが、
単なる『脳トレ』です。
読む』、『まとめる』、『書く
まぁ『感想』も入ります。

全て、受け取る側の問題です。

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